長崎消息
長崎県の職員組合の機関誌「長崎消息」に掲載されたものです。
VOL1.もてなしって何だろう?
とある飲み会で、スッと寄ってきた鉄川氏(鉄川工務店の社長)から、依頼された「長崎消息」の原稿。とにかく、何を書けばよいのか途方にくれてしまいました。刻々と締切は迫り、パニック状態に。えい、ままよとばかり、勢いに任せてこの原稿を書いています。しばらくの間、おつきあいをお願いします。
さて、私は、大学を卒業後、大分の広告代理店に勤務していたことがあります。当時、平松守彦氏が大分県知事になり、やれ、一村一品運動だ、テクノポリスだとか、注目されていた時期です。大分県の公報課が東京の官庁に向けて情報誌を発行することになり、その編集に携わることになりました。長崎県が発行していた「TIMES」みたいなものです。中身は、県内の新聞社が大分県の動きに関わる記事をまとめたもの。さらに、記事に連動した人物にスポットを当て、取材するものでした。当時、25歳程度の若造がデパートの会長や商工会議所の会頭などにインタビューし、写真撮影までするのですから、それは大変で、お会いする前は本当に緊張したものです。しかし、その時にお会いした人物は、今でも思い起こすことができます。さて、その中の一人に湯布院の溝口薫平さんがいらっしゃいます。田舎のひなびた温泉地を九州でも一、二を争う人気の温泉地にした仕掛け人の一人です。高級旅館「玉の湯」本館の離れにある休憩所で、湯布院を愛するお話を伺いました。あるのは温泉だけ。何とか目玉になる料理を開発するために海外に研修に出かけたこと、映画祭や音楽祭開催の苦労話、豊かな自然を守るために湿原開発にストップをかけたことなど。ことばの端々に湯布院を愛する心がにじみ出ていて、およそ2時間程度のインタビューはアッという間にすぎてしまいました。そして、お礼をいって帰ろうとしたところ、脇から取り出された箸袋を手渡されました。「これは、湯布院の竹細工職人が造った青竹の箸です。冷凍庫で保存しておけば、お正月まで持ちますから、お雑煮を食べるときにお使いください」。目にも鮮やかな竹箸は、決して値段が張るものではありません。しかし、手作りであること、そして、お正月にお使いくださいという心配りは、何よりも嬉しいものでした。お礼をいって、辞去したのはいうまでもありませんが、この話には、続きがあります。できあがった広報誌を溝口氏に送付したところ、間もなく、お礼の直筆のはがきが届きました。「はて、何か、取材に間違いがあったのか?」と読んでみたところ、「先日は、ありがとうございました。送っていただいた広報誌は良くできていましたので、東京の娘にも送りました」などと書いてあるお礼のはがきでした。これで、すっかり、私は、湯布院のファンになったのはいうまでもありません。町の魅力は、人の魅力であることをその時、実感したのです。玉の湯は、かの有名な評論家である故小林秀雄氏を始め、そうそうたる著名人が宿泊する宿として知られています。そんなに大した記事でもないのに、きちんと返事を出すこころ、これこそが、本当の「もてなし」なのだと。売り物が何もないと嘆くより、あるものを何とか商品にしていく、そして、多くのファンを増やしていくことが、街づくりにとっては遠回りのように思えて、実は近回りなのだと思っています。
昨年から、「花祭UNZEN」という花を中心にした、雲仙の若手経営者の方と街づくりイベントに関わるようになりました。バブル崩壊後の雲仙に若手経営者の方々の危機感は強いものがあります。同じ温泉地である湯布院にできて、雲仙にできないはずがない。だって、日本で最初の国立公園に指定された伝統ある雲仙です。少しでも、雲仙のファンを増やすことができないだろうか?と考えています。(2001.5)
VOL2.元気印の企業
「どう最近、いい話ある?」「全然、駄目。どうなるのかな?」。カメラマン、デザイナー、舞台工芸家、私の周りで働く人達は、こんな調子で、いずれも元気がない。どうも景気が悪いのは私だけではないと妙に安心してしまうこの頃。何気なく読んでいた新聞で対照的な記事が2つほど、私の目に留まった。一つ目は、業務用冷凍冷蔵庫の大手企業だったR社の倒産。写真にあった東京の支社は、2年前、商品ビデオの撮影ででかけたところだ。あれほど、元気が良さそうな会社だったのにな、とタメ息。記事では、突然の倒産に呆然としていた社員たちだが、支社の建物を利用し、業務を再開。同じような倒産企業のネットワークを通じて仕事の受注や法的アドバイスを受けているという。何とか頑張って欲しいものだ。もう一つの記事は、今をときめく、あのジャパネットたかたが長崎県の特産品を全国に売り出そうというものだ。なるほど、がんばってるな、高田社長。ジャパネットたかたは、佐世保市にあり年商約421億円、今、とても元気のある企業だ。私は、一時期そのテレビ番組を作っていたことがあった。当時は、ラジオの生放送で成功し、テレビ番組を次から次へと製作し始めた時期で、さらに、カタログショッピングまで手がけようとしている頃だった。とにかく、社長が決断をしなければ先に進まない。例えば、午後5時の打ち合わせとなっていてもたいがい2時間ほど待たされた。それは、商品の売り込みに来たメーカーさんも同じことなのだが。番組の撮影は、高田社長の独壇場だ。とにかく商品を良く知っているし、独特の話術は真似ができない。海千山千のタレントだって合いの手を時々打つ程度しかできないのだ。慌ただしく1日2本撮りを行い、すぐに編集。スタジオでの撮影だけではカットが足りないので、追加撮影を行い、インサート(挿入)していく。音入れ、スーパー(文字)入れを行い、完成。できあがったかと思えば、すぐ次の撮影。オンエアする放送局が増えると1社だけでは制作が間に合わなくなり、2~3社が交代で制作するほどだった。そういう状況の中、高田社長はいずれは自社で番組を作るよと話していたことがある。私は「それはいいですね」といいながら、そんなことは不可能だと思っていた。お金もかかるし、何より人材を確保するのが難しいからだ。だが、何でも自社でやることがいいものができる、そう信じていた高田社長の信念は揺らぎそうもなかった。映像会社を辞め、高田社長と会うこともなくなった。だが、ずっと、心の中に生き続けるうちの一人だった。今年の一月、たかたから電話があり、高田社長と実に5年ぶりに再会した。社長は昔と変わらぬ笑顔で迎えてくれた。3月から、念願のCS(通信衛星)放送を始めるという。しかも、社内に数億円の放送スタジオを作って。少し疲れた表情だったが、新しい分野に乗り出そうとする気概にあふれていた。3月24日、最初のオンエアを私もドキドキしながら見た。どうやらCSも成功したようだ。次に始める事業は、CSとホームページを活用して県産品の情報を発信していくらしい。経済界の役職は固辞し、講演依頼もすべて断り、仕事にすべての力を傾注し、自分の思う道を着実に進んでいく姿は、素晴らしい。そして、夢はまだまだ売り尽くすことがないようだ。(2001.7)
VOL3.モンゴルの夏
NHKの大河ドラマ「北条時宗」のせいか、元寇ゆかりの地めぐりがブームらしい。長崎では壱岐対馬・そして鷹島がその舞台であり、鷹島には宮崎などからのツアーが相次いでいるという。 約700年前の鎌倉時代、中国を制覇したフビライ・ハンが大軍を日本へ向けた。これが、世にいう元寇であり、伊万里湾に浮かぶ鷹島は、2度に渡る襲撃によって島の人々は全滅に近い状況になった。今でも島には激戦だった当時の状況を伝える地名や史跡が残されている。
元寇を逆手に取り島興しに取り組む鷹島町には、宿泊施設としてのゲル(中国ではパオと呼ぶ)を備えたテーマパーク、モンゴル村がある。
「お久しぶりですね」「もう10年になりますかね」。モンゴル村の支配人の貞方さんは、私の顔を見てそういった。10年前の夏、私たちは本当にモンゴルにいた。鷹島町では、元寇ロマンの島としてモンゴルとの友好を深めようと94年にホジルト市と姉妹都市を締結。その調印を取材するために私たちも同行したのだった。
モンゴルの首都ウランバートルから飛行機で約1時間。草原の滑走路に降り立った私たちは、市長・町長の姉妹都市締結を無事済ませ、翌日、元の首都であった地へと向かった。チェコ製のバスで約3時間の距離。本当に見渡す限り、草原の国だ。行けども行けども青空と緑の草原の風景が続く。やっとのことでたどり着いた元の首都は、ただ茫漠とした風景の中に消え失せていた。チベット教の寺院がポツンと佇むのみ。巡礼なのか、ヨーロッパの人々を恐れさせた民の末裔は人なつこく微笑みかけてくる。ここが、フビライ・ハンがいたところ、マルコポーロが歴史を見続けたところ。元の大帝国時代に思いを馳せる間もなく、また、元のキャンプ場へ帰らねばならなかった。いつまでも沈まぬ太陽のもと、市長歓迎の晩餐会が開かれた。羊の石焼き、馬乳酒
をふるまわれ、市長自らのホーミー(体を楽器のように震わせて出す歌)が山々に響き渡る。幻想的なひとときがそこにはあった。モンゴルに憧れた司馬遼太郎が感嘆した満天の星も見た。
ウランバートルでは、国立博物館で官軍印と呼ばれる印鑑を見た。その印鑑は、鷹島沖から発見された印鑑にそっくり。やはり、モンゴルから日本へとやってきたのだ。
ウランバートルから中国の北京まで縦断列車で約38時間。途中、ゴビ砂漠を抜けて続くこの列車の中で、私は考えた。どんな気持ちで兵士は遠い、日本へと向かったのだろう。そして、それに従わねばならなかった
南宋(中国)・高麗(韓国)の兵士達は、どんな気持ちだったろう。歴史の中で、記述される戦争は数知れない。加害者も被害者も時代によっては変わる。そして、その反省は必ずしなければならないだろう。しかし、そこにとらわれ続ける限り未来はない。どこかの時点で、「記憶の徳政令」が必要なのではないだろうか?
鷹島町では、今、温泉施設の建設が進んでいる。これが完成すれば島の悩みである冬場の集客対策として効果が上がる。さらに、鷹島大橋の建設が進行中だ。長崎には数多くの島がある。いつか「ながさき島紀行」なる本かビデオでも作って、一つでも多くの島を訪れることができたらと思っている。(2001.8)
VOL4.シナリオを書く
アメリカ同時多発テロは一体誰がシナリオを書いたのか?アフガン攻撃のシナリオは?などと、最近「シナリオ」の大安売りである。どうも、シナリオは「予定調和的な結末が用意された筋書き」と捉えられている向きがある。映画の中から引っ張り出されてシナリオも迷惑しているだろうが、すべてがシナリオ通りいかないのが世の中だ。
それでは、長崎の街づくりのシナリオはどうだろう。夢彩都やアミュプラザの開業は、確か「ストップ・ザ・天神」「市街地の活性化」「浜の町との共存共栄」ではなかったか?しかし、そのシナリオとは違う結末を大多数の人が描いていたに違いない。そして、結果は、いうまでもないだろう。長崎は「らしさ」をすっかりなくし、どこにでもある都市、「顔のない都市」になっているように思える。
以前、ある県庁マンに「県庁の人は本当に新幹線は必要だと思っているんですかね」と聞くと、「そんなことを言う人がいたら県庁を辞めるべきですね」と色をなして言われ、狼狽したことがある。また別の県庁マンには「新幹線を作るのには実際にそんなにお金はかからないんですよ」と説明されたこともある。でも、「博多との距離が短縮できれば観光客が増える」「建設資金は比較的安価でできる」「新幹線がないと恥ずかしい(?)」といったことで新幹線を持ってきていいものだろうか?
残念ながら「長崎らしさ」をもっと強く打ち出さなければ、結局、観光客は増えずストロー現象によってますます消費者が長崎から離れるだけといった完全なシナリオ倒れになるだろう。それでは、「長崎らしさ」をどう打ち出すか?前号で城尾氏が指摘されたようにコンベンションはまだまだ長崎にとってメリットのあるベクトルである。いかんせん、コンベンションホールとしては現在のブリックホールでは満足できない(私だけでなく長崎市の職員を含むいろいろな方が不満をいっているのだが)。そして、コンベンションホールはやはり街の中心部に近いところにあって欲しい。その点では、常盤・出島地区が最適だと思うが、県と市の役割分担ということで新規の物件は無理なんでしょうかね。分科会会場の数が不足している状況では浜の町を取り込む案もおもしろい。
もう一つ、長崎の味をもっとアピールすべきだ。常々、私は「ちゃんぽん博物館」なるものを作ったらといっているのだが、なかなか相手にしてもらえないのが寂しい。いろんなちゃんぽんが食べ比べでき、絶えずお客様の人気度調査が発表される店が一同に。やっぱり駄目かなあ。フィッシャーマンズワーフをめざした出島ワーフがわけのわからない、それこそちゃんぽん通りになっちゃっている現状では。そういえば、長崎県でも「長崎俵物」なる海産物のブランド化をすすめているらしいが、必要なのはシナリオ、なぜ、この「長崎俵物」がいいかをうまく伝えないと結局成功しないのでは。
シナリオを書くーといえば、新聞でご覧になった方もいると思う。大村市が市制60周年記念事業の一環として公募していた市民ミュージカルに私の企画が採用された。公演日は来年の8月4日(日)。大村市出身者として頑張りたい、とはいうものの、やりたいこととできることのギャップに悩んでいる。現在は、出演者を募集しているところ。大村市及び近郊にお住まいの県庁職員の皆さん(家族ももちろんOK、経験不問)、参加しませんか?(2001.11)
VOL5.ベクトルはどこへ
私の仕事は一応、広告制作業となっているので広告の話を少しさせてもらおう。ニュースの場合の規則というか法則に5W1Hというのがあるように広告の場合、AIDMAの法則というのがある。A=Attention これは何の広告だろうと注意をひく。次のI=Interest 商品に興味を持たせる。D=Desire この商品が欲しいなあと思わせる。M=Memory 商品を記憶させる。A=Action 商品を見たら買わせる。このAIDMAが広告の基本だといわれている。つまり、消費者に対して購買行動を行わせるベクトルを示しているのだが、残念ながら、この法則を踏襲して実際に制作することは少ない。それは何故かというと、広告はクライアント(スポンサーは電波媒体=テレビやラジオに限定して使われることが多い)がお金を出すことによってのみ成立するからである。
どんなに制作者側がこれは消費者の気をひくいい作品だと思っても、クライアントがNOといえばおしまい。だから、ベクトルは消費者よりもクライアントに向かう。 侃々諤々の議論を交わしてみんなが面白いと思っても、「担当者がねえ~」で沈黙。また、一から出直しだ。特に官公庁の場合(特に県庁)は、無難なものを出すことが多い。
クライアント側が広告会社に対して行う商品や物件の「説明会」を我々はオリエンテーションと呼び、その後、企画や作品の説明を行うことをプレゼンテーションと呼ぶ。もう、打ち切りになったが、昨年、いろいろなプレゼンテーターが対峙してクライアントに決定してもらうテレビ番組があった。一流のプレゼンテーターがデータを提示し、商品がいいとか、ターゲットに受け入れられるか、と口八丁手八丁でプレゼンすると、最初は否定的だった審査員がよろめく様は、感心しきり。つまり、「広告というのは最後はいかにクライアントの共感を得るか」にかかっているかが如実にわかったからなのだが。
さて、本題に戻ろう。広告は常に違うベクトルに向かっていきやすいかということだったのだが、これは何も広告に限ったことではない。2年前、グラバー園で行われたある音楽イベントがあった。ジャズの音楽に気持ちよく耳を傾けていた聴衆。そこへ、暗闇から金子知事が現れた。進行上、知事が来場するとは聞いていなかった我々スタッフとしては、この場合、そのままにしようと話をしていた。ところが曲と曲の間に司会が演奏者へインタビューをしていたところだ。急に男性2人がステージのど真ん前に駆け寄り、「知事が来ているから紹介を」としきりに司会者に話しかけるではないか。進行を妨げることになるが無碍にもできず司会者も知事の来場を告げ、ステージに上げた。呼ばれた知事も困惑気味だったようだ。これには、周りのスタッフは怒り心頭だった。こんな場をぶちこわすようなことをしなくても、知事を紹介するスマートな方法はいくらでもあったのに。知事を登場させた男性たちは満面の笑顔だったが(決して県庁職員でないことを祈りたい)、暗澹たる気持ちだった。たぶん、知事のためによかれとしたことなのだろうが、こうした類の「違う方向へのベクトル」は少なくないのではと思える。
長びく不況とあいまって県政への期待の裏返しか、残念ながら県庁職員へのほめ言葉は少ない。というか圧倒的に厳しい目で見られていることは忘れないで欲しい。あなたのベクトルはどこへ向かっていますか?(2002.1)
VOL6.スラップスケート
ソルトレークシティーオリンピックも予想通り、日本勢は活躍できずいまいち盛り上がりに欠けてしまった。疑惑の判定など競技以外の方がおもしろかったりして。さて、話は変わり、スピードスケートのスラップスケートをご存知だろうか?長野オリンピックを前に突如として出現したバネ仕掛けのスケートシューズは、まさに革命。うまく対応できなかった選手もいれば、いち早く対応することで無名だった選手が一躍トップに立つ現象が起きてしまった。何年も血のにじむような努力をして100分の1秒を縮めるために培ってきた技術が根本から否定されるのだ。理不尽というか選手にとっては想像を絶する苦悩に違いないが、考えてみれば私達の仕事も同じことだ。
私がこの業界で仕事を始めた頃、印刷原稿には文字を打つ写植という仕事や文字を印画紙に貼り込む版下という仕事があり、それ以外にも、さまざまな職人が存在し、その技を見るたびに感嘆したものだ。ところが今、写植や版下といった仕事は完全になくなりつつある、というか、デザイン界のスラップスケートであるパソコンにとってかわってしまった。昔は手を出せない職人の仕事がデザイナーの仕事に変わってしまったのだ。ということはパソコンを使えないデザイナーは存在できないことになってしまった。いわゆる構造改革である。そればかりか、デジカメの出現によってカメラマンや現像所の仕事は激減し、逆に今までデザイナーが行っていた仕事に手を伸ばす人もでるようになった。「パソコンじゃ味のあるデザインは無理だよ」「銀塩写真にはデジカメは勝てないよ」、そういった現場の声がいつのまにか消えてしまった。今まで腕一本で稼いできた人間がそれなりの投資とやる気を持たなくてはやっていけないのだ。それも、機械もソフトも陳腐化するという恐怖を常に背負って。本当に恐ろしい時代になったものだ。
かくいう私も、4代にわたるワープロと決別し、2年前の冬にパソコンを導入。今までに3台のパソコンを導入し、ソフトやら周辺機器やらを次々と揃えている。もはやパソコンのない世界には戻れない。さらに、携帯電話やインターネットの存在がさらに仕事のスタイルを大きく変えている。この原稿だってワープロソフトで作成し、メールで添付ファイルを送信している。私のデスクワークの大半を占める企画書作りや台本、デザインの仕事はパソコンがあれば完結できる。ただし、パソコンが中身を作ってくれるわけではない。自分が常日頃、情報を集め、人の話を聞き、街を歩き、考えることをしなければいけないのは同じなのだから。今までの経験やノウハウは決して無駄にはならない。むしろ、財産である、と思いたい。
パソコンに限らず県庁にスラップスケートが出現したとき、皆さんはどうするだろうか?じっとやり過ごすか、今の流儀を頑固に守り通すか、それともチャンス到来とチャレンジするだろうか?(3月10日)
VOL7.キャスティング
私が今手がけている大村市制60周年記念市民ミュージカル「Good Bye!スミタダ。」。ストーリーは、時200x年、退屈をもてあましていた高校生、スミタダとその仲間達の前に異様な風体の男が現れる。その男は、400年以上も前に活躍したあの偉大な領主、大村純忠と名乗る。嘘か、ホントか。退屈凌ぎにちょうどいいと喜ぶスミタダ達。だが、忍び寄る謎の男達。そして、純忠の体に異変が起き始める。純忠の復活にはどうやら人類研究所が関係しているらしい。それならば人類研究所に乗り込むしか手はない。スミタダが生み出した飛行機「イタロウ号」に乗って人類研究所へ向かう二人。果たして純忠の運命は?時代を超えた友情の行方は?となるのだが、そのキャスティング(配役)が決定した。もともと今回は脚本があり、それに沿ったオーディションをしたわけではない。最初に原案があったものの、出演者を公募し、全員を出すのが条件。そのために出演者を増やすシーンを無理矢理作る算段をせねばならず、しかも、男性が極端に少ないという泣きっ面に蜂状態の中、スケジュールの都合上、台本のアップが早まるというおまけまでついてしまった。台本を書くというのは実に辛い作業である。音響・照明効果、場面転換、時代背景、公演時間、予算、その他さまざまな要素を見通しながら作成しなければ、意味がない。3週間に及ぶ艱難辛苦の末、なんとか台本ができあがりホッとしたのもつかの間、今度は、キャスティングである。とある日曜日、会場に集まった約100名に台本の一部分を演じてもらうオーディションを午後6時に開始し、終了したのが9時。それからスタッフの間で分かれる意見調整をして決定したのが午前2時。そして、その日の午後6時に発表と怒濤のスケジュールをこなした結果、ベルト2つ分のダイエットと相成った。
それにしてもキャスティングは難しい。人が変われば役のキャラクターもガラリと変わるし、全体のイメージだって違う。最後はベストと思った決定をしたつもりだが、発表のボードを見たみんなの表情もさまざま。思いっきり喜ぶ人、思いがけない役で不満げな人、もっといい役をといいたげな人・・。夜中に釘だけは打たないでと願うしかない。すると、主役である純忠役から早速泣きが入った。この人はお米やさんで演劇経験がある人なのだが、あまりの歌の多さに恐れをなしたようだ。何せ、ミュージカルというぐらいだから曲がなくては始まらない。約1時間半の公演予定でオリジナル約30曲が必要となり、そのうち歌入りが20曲近くある。それも半分が純忠役のソロなのだ。予想もしなかった主役、しかも出ずっぱりで慣れない振付を覚え、歌まで歌わないといけない。呆然としているそばから「大丈夫ですよ」などとなだめたものの、内心、大変だなあと思ってしまう。現在のレッスンは歌稽古が終了し、やっと立ち稽古に移った状態。レッスンもそうだが、ステージプラン、音響・照明プランの作成、さらにポスター・チケット・チラシの作成までやらないといけないことが山のようにある。ああ、原作者だけで逃げておけば良かった。
後悔しても遅いが8月4日の本番まで果てしないストレスとの戦いである。(5月10日)
VOL8.プレテの嵐
以前、プレゼンテーション(略してプレテ)のことを書いたが、最近、官公庁は「プレゼンの嵐」なのである。毎回、毎回金額を問わず9社とか12社とかの競合プレテが続いていて、仲間内では悲鳴を上げているのだ。なぜ、競合プレテが増えたのか?一つには価格を抑えるため、もう一つは競争というスタイルをとらないといけないからなのか?何も競合プレテが悪いといっているわけではない。しかし、しかし、である。何らかの基準で選ばれた広告代理店やプロダクションが主に対象となって臨むのだが、すべての会社に対応できる能力はない。勢い外注へと流れ出す。かといって、ドラエモンのなんでもポケットじゃあるまいし、そんな簡単にアイデアや企画が生まれるわけがない。一番困るのは時間がないこと。ひどい物件になると1週間以内で(しかも土・日が入って)提出のことといった条件があったりする。「これは本当にいいプランを求めているのだろうか?」と疑いの目でみたくなる。関連の資料もなく、あるのは1~2枚のペーパーがあるだけということも。出席した営業マンもハッキリした意見なんてなく「とにかくお願いします」の一言だけ。頼りない海図をもとに嵐の中を突き進む船長の心境で、それこそ睡眠をけずってウンウン唸りながら艱難辛苦の末に仕上げなければならない。
こうして心血注いでできあがったプランが通ればいいが、正直、参加者が多ければ多いほど宝くじにあたるようなものだ。駄目な場合は、それまでにかかった経費はどうするか?となる。ところがプレゼンシートにはほとんど「プレゼンにかかる経費は無償とする」の無情の一文が。そりゃ、あんまりでしょ。みんなの一致した意見は「金額は少なくとも一定の費用は払ってもらいたい」ということに尽きる。他の業界も同じなのかしらん?「プランが通るのは難しい、だけど、せっかく声をかけてもらったのだから出さないと次はずされるかも。しょうがないから金のかからないそこそこのプランにしよう」と考える会社だってある。
今も目の前には某市役所が実施するイベントに関する一枚のプレゼンシートがある。まったく要領の得ない項目が羅列されているだけ。静まりかえった事務所の中で一人、ため息をつきながら眺めては考える。「このイベントはいったい誰を対象に、どういった目的でするのだろう?」。県庁の皆さん、プレゼン用の資料はわかりやすく情熱を込めて作成してください。プレゼンを受けた人がそのままプランを作ることはまれだと思うので。
VOL9.上海オールドジャズバンド
9月下旬、中国上海からおじいちゃんバンドがやって来た。その名も和平飯店上海オールドジャズバンド。日中国交正常化30周年記念として長崎にやってきたのだが、長崎での公演は4回目。メンバーのトータル年齢はナント、
443才で平均年齢が73.8才、最高齢はドラムの84才というのだから驚きだ。今回は孔子廟会場、長与町民文化ホール、そして旧香港上海銀行長崎支店跡などで公演したのだが、会場は違えど、メンバーの年齢紹介とともにため息とも感嘆ともいえぬ声が一斉に湧き起こった。もちろん、演奏は大盛り上がり。スタンダードジャズはもとより「北国の春」「長崎は今日も雨だった」といった日本の歌・長崎の歌まで、溌剌とした演奏に観客は盛大な拍手を送った。さて、彼らの実力はというと、正直、決してうまいわけではない。だが、音楽が心底好きだという気持ちが随所に感じられ、それが観客の心を打つのだと思う。古いミュージシャンにいわせると「昔、日本でやっていたジャズが、こんな感じの演奏だったね」。時代遅れのジャズー。ジャズといえば、世界三大ジャズフェスティバルに数えられるニューオリンズジャズフェスティバルに出かけたことを思い出した。ミシシッピー州の河口に広がる港町、ニューオリンズ。アメリカなのに古き良きフランス風の面影を残すこの町は(ニューオリンズの地名はニュー=新しい、オリンズ=オルレアンから来ているらしい)、街中がジャズの音楽に彩られている。ストリートには、トランペット、オルガン、太鼓など多種多彩な楽器を携えたミュージシャンが待ち受け、思い思いの演奏をしているかと思えば、アパートらしき2階のバルコニーから歌声が聞こえたり、はたまたデキシージャズバンドの一行が通り過ぎていく。ジャズフェスティバルの期間中だからいうわけではなく一年中、こんな調子らしい。極め付きは数多く建ち並ぶジャズ演奏を目玉にするバー。夕闇にガスライトが灯るのを合図にジャズが流れ出す。その音は日本で聞くジャズとは似ても似つかぬジャズだった。日本のしっとりしたジャズとは違うサラリとした軽やかな空気感。その後、訪れたニューヨークのバーで聞いたジャズの演奏もそうだった。
上海オールドジャズバンドのジャズは、いわゆる本場で聞いたジャズとは違う。しかし、彼らは世界中にファンを持ち、アメリカ、ヨーロッパなどでも公演を行い好評を得ているらしい。時は変われど、彼らのスタイルは変わるまい。毎日休みなくホテルにやってくるファンを相手に3時間演奏を続ける、それを苦とも思わず淡々とこなす人生の達人たち。どれだけの人が70才や80才になるまでそんな人生を送ることができるだろうか?
VOL10.寄り道
5月31日、長崎市の南山手に新しい観光ルートが誕生した。石橋の電停に近い大浦市場そばから南大浦小学校にかけて完成した、道路としては全国初となる斜行エレベーター。さらに垂直エレベーターがグラバー園の裏口につながる南山手新ルートだ。
試しに斜行エレベーターの1階から横の階段を登ってみる。ゆっくり登れば大丈夫と高をくくったのが悪かった。次第に足が上がらなくなる。相生町には幾つか坂がある。例えば「相生地獄坂」。笑っていた愛称の立て札がなるほどと思わせるものばかり。本当に坂道を上るのは大変だ。
もう一度もとに戻り、1階から斜行エレベーターに乗ってみる。17人乗りで分速90m、約50mの高さを約2分で終点に到着する。垂直エレベーターも快適。ドアが開くとそこは、南山手や東山手、長崎港を一望する展望台となっている。それからグラバー園の第二ゲートとなった裏口へ。これなら、高齢者や体の不自由な方も楽にグラバー園へ入園できる。グラバー園自体もバリアフリー化が進んでいるようだ。
さて、ここから階段を使って「リンガー公園」なる小さな公園のそばを通り下っていくと居留地時代初期の住宅、旧清水邸を改修した「レストハウス」に辿り着く。「レストハウス」の内部はパネルがあるくらいであまり興味をひかないが、芝生を張った庭とその外観はなかなかいい。コンサートでもできそうな感じ。レストハウスの前には大浦展望公園があり、活水大学や海星高校が間近に見える。この眺望もなかなかのもの。さらに、坂道を下っていくと、私の好きな道がある。祈念坂と名付けられたその道は、大浦天主堂とその向こうに長崎港を望むことができる。ゆっくりと坂道を下っていくと幾星霜を超えた時代の息吹を感じられる。途中には有名なウォーカーさんのご子孫がお住まいの屋敷もある。実は「祈念坂」が グラバー園の裏口につながっていたことを知らなかった。開通式の下調べにちょっと周辺を歩いてみようと思わなかったら、多分ずっと知ることなく過ごしていたに違いない。
そういえば、私は大体、同じ道を走ったり、歩いたりしている。通勤、通学、ショッピング、はたまた酒を飲んで自宅へ帰るタクシーの道順さえも。知らず知らずのうちに年を取るごとにそれは変えようのない天動説のように確固としたものになっているようだ。ときには立ち止まり、ゆっくりと寄り道をしてみるのもいい。きっと新しい発見があるに違いない。
多分人生も同じこと。寄り道がいつか役に立つことがあるかもしれない。とはいうものの本紙に寄稿している川良さんのように波瀾万丈の寄り道はできないが。(ちなみに川良さんは、坂道でよく転ぶらしい。実際、一度、派手な転倒を目撃している。本人は「膝の皿が人より小さいから」と言い訳しているが、果たして本当は?)